神・呉爾羅(シン・ゴジラ)
シン・ゴジラを見た。
熱が冷めない内に感想を書きたい
と思ったのにも関わらず、気付けば見た時から1日経ってしまっていたが依然としてまだ熱は冷めていないので当初の目的通り感想を書くことにする。
[尚、この記事はまだこの映画を観ていない人に対して、読んだ人に「観に行きたい」と思わせるような内容にしたいのでネタバレは極力避けています。]
総評として
エヴァじゃんこれ
という野暮な意見も気にならないくらいに面白かった。
原爆や政治に対するプロパガンダも含まれてはいるが、くどくはならずにしっかりと映画の中での一つの要素として昇華されている。
映画のキャッチコピーは
現実 対 虚構
まさにその通りの映画で、実際に日本にゴジラが現れたらどうなるのか、それを本気で考えている映画だった。
石破大臣が自身のブログで「害獣駆除として災害派遣で対処するのが法的には妥当であり〜理解できない」としてシンゴジラに対してのツッコミをいれているがそのツッコミが入る時点でこの映画への法関連の力の入り具合が伺えるであろう。(映画内でもゴジラに対して法でどの様に対処出来るかの言及はされている。)
映画を作るに当たって庵野監督は政治、軍事関係者にリサーチを行っていたらしいが、それによって「ゴジラが現れる」という超弩級にぶっ飛んだ虚構も多少は現実に近づいている。
映画らしくエンターテイメントに振り切ってはいるがその基礎の地盤がしっかりしているから「いくらなんでもそりゃないよ」というこの手の映画にありがちなやり過ぎて笑ってしまう現象や、心の中のツッコミが中々出にくくなっていると思う。
そして、この映画が他の映画と違う点はキャストの多さである。
なんと総勢328名
一人一人が主役を張れる程の俳優・女優が328人も出ているのだ。
その誰もがそのシーン、その場所に見事に馴染んでおり不自然さを感じさせず映画への没入感を深めている。
自分も映画を見終わった後に出演キャスト一覧を見返したのだが「嘘?この人出てた?」という人が大半でありつつも、「あ、この人はいたな」と言う小さな楽しみがあった。
その誰もが気を抜いていたら気付かないほどに一般人に徹しており、悪く言えばぞんざいに扱われているのであるが、この映画ではそれが実にうまく機能していると感じた。
もう一つの点として
映画としての「演技がかった演技」が少ないというものが挙げられる。
演出としてセリフ回しが早口だったり小声だったり、時には滑舌が悪すぎて聞き取れなかったりというシーンが時たま見られたが、これによって映画として撮っているというよりも実際に起こっている事を垣間見ている様な錯覚に陥る効果があった。その中で演技が光るシーンでは前述したシーンとのギャップで、あからさまにテンションが上がるし「ゴジラ」という現実ではありえない次元との擦り合わせを上手く出来ていたと思う。
最後にこれは完全に個人的な感想になってしまうが市川実日子とエンドロールの音楽が最高だった。
市川実日子が出てきた時には気絶しそうになったしメカゴジラのBGMが流れてきた時には泣きそうになってしまった。
ゴジラに対しても少しは言及しようと思ったが少しでも触れるとネタバレになってしまう気がするので書かずに終える事にした。
ゴジラに対しては完全にフレッシュな状態で見て欲しいのである。
ゴジラはいいぞ
p.s 片桐はいりさんの馴染み方が半端無かったです。
超SS級B級映画
今回は「えびボクサー」という映画について書こうと思う。
この映画を見たのは半年ほど前であるが、ふとした事で思い出したので書く事にする。
「えびボクサー」とはカルピスの原液一滴を水2ℓで薄めた様な感覚の映画である。
映画の味がする様な、しない様な…
いや、断じてするわけがない。
だって水2ℓで薄めてるんだもの
まず、この映画のおおまかなあらすじについて説明すると
今は一線を退いた元ボクサーが巨大なエビを友人から買って、TVに売り込む
という内容である。
断じて自分の頭がおかしくなっているわけではない、おかしいのはこの映画なのだ、という事をどうか理解して頂きたい。
この映画のメインは「エビ」であるが、これがまたひどい。CGは一切使われておらずハリボテであり、縛られている為に最初から最後まで動くシーンがない。強いていうのであれば伸びている触覚だけは絶え間なく動いてはいたが、「だから何なんだ」と言われてしまえばそこまでである。
エビがこの様な出来なのでエビが出てくる全てのシーンで盛り上がりに欠け、特に山場を迎える事なく映画は終わっていく。
そして肝心のギャグでは笑う要素がなく(ギャグの概念が壊れている)登場人物のヤケに高いテンションの空回り具合を見ていれば、時間が経つにつれ自分の表情筋が脱力していく事を嫌でも感じさせる事であろう。
この映画自体はギャグを主体としているが、例えるのであれば"全く面白くないフルハウスにハリボテの巨大エビが佇んでる"という奇妙な絵面でこれを見てる自分自身の正気を疑う出来に仕上がっている。
もう一つ言える事として、登場人物全員がまともじゃない。これだけ聞くと一見面白い映画のキャッチコピーの様になってしまったが、登場人物の中に誰一人としてまともな思考回路を持った人がいないというのは相当やっかいな状況であり、結果として映画全体を狂気が包み込むという無残な結果になってる。
コンドームに水を詰めて投げ合ったり、アイスを身体に塗るプレイに興じたり、嬉々とした枕営業(しかも不倫)だったり、これを狂気と言わずして何と言うのであろうか。
よく「呪いのビデオ」という触れ込みでホラー作品が挙がっていたりするが本当に呪いが込められていそうなのはまずこの映像なのでは無かろうか。
えびボクサーを見た感想は
「なんだこれは!!」
といったものでは断じてない
せいぜい
「あぁ…」
程度が関の山である。
かつてここまで毒にも薬にもならない映画があっただろうか。
つまらない映画なら、つまらない映画なりにしっかりと毒になり、自分は毒を盛られたなりのリアクションを取る所存であるが、残念ながらこの映画を見た時はなんのリアクションも取ることが出来なかった。
殺すならちゃんと殺してくれ
と頼みたくなる気持ちだ。
以前虚無感に関する記事を書いたが、この映画を見た直後なら誰であっても「虚無感を抱える」種目の指定強化選手になる事が可能であろう。いや、メダリストだって夢では無いはずだ。
この記事を書くにあたって
他の人はどんな感想を抱いているんだろうか?
という興味本位で「超映画批評」を見たらまさかの90点だった。
家族を人質にとられているのかと本気で疑ったが、感じ方は人それぞれという事だろう。
この記事を見たあなたも本当に暇で暇でしょうがないのなら是非この映画を見て、自分なりの感想、答えを見出してほしい。(哲学)
p.s. 毒を盛られていると気付かないくらいにゆるりと回る毒かもしれません
アジアのカンフー世代
この世に人間として生きていると
「あれ?この曲ってこんなに良かったっけ?」
といった感情が沸き起こる現象に陥る事がそこそこある。
最近この現象に陥ったので今回はそれについて書きたいと思う。
先日、車に乗っていた時、車内にはASIAN KUNG-FU GENERATIONの「藤沢ルーザー」が流れていた。
アジカンに関しては中高生の頃によく聞いていたし、カラオケにいけば90%の確率で「ソラニン」を歌うロボットと化しているので、藤沢ルーザーのイントロが流れ出したあたりは
「あぁ、懐かしいな」
程度の感動だったのだが一番が終わって二番に差し掛かる間奏の時には少し泣いてしまいそうな位のレベルまで感動が進化していた。
とにかくもう歌詞が素晴らしいのだ。
中高生の時にも歌詞は同様に意識して聞いていたが、「藤沢ルーザー」は特にピンとくる事は無く一通りアルバムとしての"慣らし"が終わった後はどちらかというと飛ばしてしまう曲だった記憶がある。
恐らく自分の環境がその時とは変わった事で歌詞に共感出来るようになったのであろう。
例えるなら、
失恋してない時に聞いた失恋ソングは微妙な印象だったが失恋してから急にその曲が好きになり聞くようになった。
みたいな…(藤沢ルーザーは失恋ソングではない、念の為)
中高生の時に聞いてピンとこなかった「割とよくある日々の擦れ違い」が最近では増えたのかもしれないし「僕は ほら 何にもないや」な状況になっているのかもしれないがそんな感じでもいいやと聞いてたら思える曲である。
そうだ 高いリール買おうか
今日はほら 天気がいいから
最後にliveの動画を貼るので是非見て欲しい。公式のPVを貼ろうと思ったが、PVだと情報量が多すぎて歌詞が頭に入ってこないのである
ASIAN KUNG-FU GENERATION/藤沢ルーザー(fujisawa loser)-live- - YouTube
p.s ジェネレーションとレボリューションを間違えてブログタイトルが危うく「アジアのカンフー革命」になるところでした。危ない。
春は曙(夏はボブサップ)
夏は夜とはよく言ったもので
確かに「日の登っている間」より「日の沈んでいる間」のほうがアガっている気がするし、枕草子が書かれた平安時代風に言うなれば日の沈んでいる間の方が「いとおかしな感じ」がする。
先人の知恵万歳と思ったけれども
もしかしたら単に、日の登っている時の気温よりかは夜の方が気温が下がるので嬉しいというだけかもしれない
しかし、これは個人差があるのかもしれないが自分は「夏の夜」が「全季節中の夜」の中でも一番好きだ。
なんといっても家からコンビニに出かけるまでのタイムラグが無い。
夏はパジャマのままで外に出ることに躊躇する事はないが、秋口にでも入ればすぐに寒くなってしまいパジャマで外を出ようという感覚自体が無くなってしまう。
そして一番の理由として
コンビニで買うアイスがおいしい
外気温が極限まで高められているので、冷えたものを食べると外気温と口の中の温度でのギャップ萌えが止まらない。
これは余談になるが、ただの水でも冷えてさえいれば、まるで富士山の山頂で水を飲んでいるかの様な気分になる事が可能だ。
この時期には各食品メーカーがアイスを他のシーズンの5倍はプッシュしていて、需要と供給のバランスを実によくわかっていると思う。
そういえば最寄りのコンビニでおでんが始まったが先ほどのアイスとは違い、これに関しては需要と供給のバランスをまったく理解していないので、果たして売れるのかが大変見ものである。
今回の短歌
蒸し暑い
部屋からコンビニ
いってきます
ただいま
僕とアイスクリーム
p.s おでん売れてたら土下座します。
テレスドンと10の14乗/1番線
自分の脳は不思議なもので、必死で覚えた「語句や数式やらの類」は、テストの翌日にはもう忘れてしまっているのに、漫画で得たどうでもいい知識は以外と抜けずに頭の中に残っている。
子供の頃「究極超人あ〜る」という漫画を読んでいて出てきた『「テレスドンの目」と「ケムラーの目」の違い漫談』なんかは何故かいまだに覚えているから、もしウルトラ怪獣の目玉判別クイズをやればテレスドンの目とケムラーの目の違いだけは確実に判別する事が出来るであろう(そんなクイズがあれば、の話ではあるが)
しかしそんな「テレスドンの目とケムラーの目の違い」よりもくっきりはっきりと覚えている漫画で得た知識がある。これは知識というよりもトラウマとして深く刻み込まれているだけかもしれないが
同時期に読んでいた「キテレツ大百科」で「航時機」という発明品が出てくる。
この発明品は壁や床、時間までも飛び越えてどこにでも好きな場所に乗っていける、いわゆるドラえもんでいうところのタイムマシン的なアレであるが、この道具が壁を擦り抜けることが可能な理由として「分子と分子の間をくぐり抜けれる様に調節してある」というとんでもない説明付けがなされているのだ。
その説明は更に熱を帯び「この道具が無くても、分子自体は粒子であるから壁に向かって走り続ければ低い確率ではあるが壁と自分の分子同士がぶつからずに、壁を擦り抜けることはある」と続いている。
問題なのは、この「壁にぶつかり続ければいつかはその壁を擦り抜けることが出来る」という箇所である。幼少期の自分はこの文章を見て、壁にぶつかる事を妙に恐れてしまう変な子になってしまった。
実際に壁を擦り抜ける事が出来る確率はどの位なのであろうか。
先ほどネットで調べてみたところ
10の14乗分/1
らしい。
10の14乗回、壁に向かって歩いていけばいつかは我々も、9と3/4番線に辿り着いて魔法学校に通えるのではなかろうか。
そう思えば残りの人生全てを壁にぶつかる時間にあててもいいのかもしれない。
今はそんな気分である。
p.s ハリーポッター続編楽しみです。
脳内麻薬とソーシャルゲーム
皆さんはソーシャルゲームをやっているだろうか?
ソーシャルゲームとは、「sns上で展開されるオンラインゲーム」の事を指した言葉であるがもっと端的に言えば、ガチャを回したいという欲求に駆られる麻薬である。
まずはじめに自分はソーシャルゲームというものに幸いハマれた事がない、単に飽きっぽい性格なのも関係しているかもしれないが、ソーシャルゲームは純粋な「ゲーム」としてではなく「ゲーム以外の何か」としての楽しみを求められている様な気がする。
というのもソーシャルゲームでは大半の場合、自分の強さが運によって決められてしまう場合が多く、自分がゲーム上でどうのこうのするのはオマケの様な要素ばかりで実際は「ガチャ」によって出た出目が自分の強さになるのである。
ユーザーがガチャを回す時、多分、頭の中ではドーパミンとかエンドルフィンとかその他諸々のおびただしい量の脳内麻薬が出ている。多分。
この様なシステムであるから大半のユーザーは「ゲームをする事」よりも「ガチャを回す事」に躍起になり、いつの間にか「ゲームをする」と「ガチャを回す」の主従関係が逆転してガチャを回す為にゲームをしているという状況に陥ってしまう。
ゲームはあくまで個人の趣味なので本人が楽しんでさえいれば、それは良い事だし逆に肯定的であるが、自分ももしかしたら何かの拍子でソーシャルゲームを始めてしまい、いつかこのガチャ麻薬に手を染めてしまう時が来るのだろうか?と想像してしまうと何とも言えない気持ちになってしまう。
今回の短歌
一万円
現実世界で転送し
デジタル空間
ガチャ100回転
p.s ハードゲームが好きです。
虚無感オリンピック
最近「虚無感」を感じることが増えている。
虚無の感覚
何もない感覚である
特に楽しくもなければ特に悲しいというわけでもない
正に「プラマイゼロ、むしろマーイ」と言った感じである。
この世に、何かを成せば得られる称号は山ほどあれど、何も成さない事で得られる称号は一つとしてない
しかし、その生産性の無さがある程度の限界に達した時点で評価されても良いのではないのか?そうでも思わないとやってられないくらいの虚無感を感じている
大学生でこれ程の虚無感を抱えている人はそうそういない気がするので、もしオリンピックで「虚無感を抱える」という競技が新しく追加されるのであれば指定強化選手にくらいは選ばれるのではないか、恐らくは。
今回の短歌
控えめな
秒針「12」を飛び越えて
対して変わらない
今日と明日
p.s 何もないって平和だ