遺書

三日坊主なんで多分すぐやめます。

春は曙(夏はボブサップ)

夏は夜とはよく言ったもので

確かに「日の登っている間」より「日の沈んでいる間」のほうがアガっている気がするし、枕草子が書かれた平安時代風に言うなれば日の沈んでいる間の方が「いとおかしな感じ」がする。

 

先人の知恵万歳と思ったけれども

もしかしたら単に、日の登っている時の気温よりかは夜の方が気温が下がるので嬉しいというだけかもしれない

 

しかし、これは個人差があるのかもしれないが自分は「夏の夜」が「全季節中の夜」の中でも一番好きだ。

なんといっても家からコンビニに出かけるまでのタイムラグが無い。

夏はパジャマのままで外に出ることに躊躇する事はないが、秋口にでも入ればすぐに寒くなってしまいパジャマで外を出ようという感覚自体が無くなってしまう。

 

そして一番の理由として

コンビニで買うアイスがおいしい

 外気温が極限まで高められているので、冷えたものを食べると外気温と口の中の温度でのギャップ萌えが止まらない。

これは余談になるが、ただの水でも冷えてさえいれば、まるで富士山の山頂で水を飲んでいるかの様な気分になる事が可能だ。

 

この時期には各食品メーカーがアイスを他のシーズンの5倍はプッシュしていて、需要と供給のバランスを実によくわかっていると思う。

そういえば最寄りのコンビニでおでんが始まったが先ほどのアイスとは違い、これに関しては需要と供給のバランスをまったく理解していないので、果たして売れるのかが大変見ものである。

 

今回の短歌

 

蒸し暑い

部屋からコンビニ

いってきます

ただいま

僕とアイスクリーム

 

 

 

p.s  おでん売れてたら土下座します。

 

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テレスドンと10の14乗/1番線

自分の脳は不思議なもので、必死で覚えた「語句や数式やらの類」は、テストの翌日にはもう忘れてしまっているのに、漫画で得たどうでもいい知識は以外と抜けずに頭の中に残っている。

 

子供の頃「究極超人あ〜る」という漫画を読んでいて出てきた『「テレスドンの目」と「ケムラーの目」の違い漫談』なんかは何故かいまだに覚えているから、もしウルトラ怪獣の目玉判別クイズをやればテレスドンの目とケムラーの目の違いだけは確実に判別する事が出来るであろう(そんなクイズがあれば、の話ではあるが)

 

しかしそんな「テレスドンの目とケムラーの目の違い」よりもくっきりはっきりと覚えている漫画で得た知識がある。これは知識というよりもトラウマとして深く刻み込まれているだけかもしれないが

 

同時期に読んでいた「キテレツ大百科」で「航時機」という発明品が出てくる。

この発明品は壁や床、時間までも飛び越えてどこにでも好きな場所に乗っていける、いわゆるドラえもんでいうところのタイムマシン的なアレであるが、この道具が壁を擦り抜けることが可能な理由として「分子と分子の間をくぐり抜けれる様に調節してある」というとんでもない説明付けがなされているのだ。

その説明は更に熱を帯び「この道具が無くても、分子自体は粒子であるから壁に向かって走り続ければ低い確率ではあるが壁と自分の分子同士がぶつからずに、壁を擦り抜けることはある」と続いている。

 

問題なのは、この「壁にぶつかり続ければいつかはその壁を擦り抜けることが出来る」という箇所である。幼少期の自分はこの文章を見て、壁にぶつかる事を妙に恐れてしまう変な子になってしまった。

 

実際に壁を擦り抜ける事が出来る確率はどの位なのであろうか。

先ほどネットで調べてみたところ

10の14乗分/1

らしい。

 

10の14乗回、壁に向かって歩いていけばいつかは我々も、9と3/4番線に辿り着いて魔法学校に通えるのではなかろうか。

 

そう思えば残りの人生全てを壁にぶつかる時間にあててもいいのかもしれない。

今はそんな気分である。

 

 

p.s ハリーポッター続編楽しみです。

 

 

 

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脳内麻薬とソーシャルゲーム

皆さんはソーシャルゲームをやっているだろうか?

ソーシャルゲームとは、「sns上で展開されるオンラインゲーム」の事を指した言葉であるがもっと端的に言えば、ガチャを回したいという欲求に駆られる麻薬である。

 

まずはじめに自分はソーシャルゲームというものに幸いハマれた事がない、単に飽きっぽい性格なのも関係しているかもしれないが、ソーシャルゲームは純粋な「ゲーム」としてではなく「ゲーム以外の何か」としての楽しみを求められている様な気がする。

 

というのもソーシャルゲームでは大半の場合、自分の強さが運によって決められてしまう場合が多く、自分がゲーム上でどうのこうのするのはオマケの様な要素ばかりで実際は「ガチャ」によって出た出目が自分の強さになるのである。

 

ユーザーがガチャを回す時、多分、頭の中ではドーパミンとかエンドルフィンとかその他諸々のおびただしい量の脳内麻薬が出ている。多分。

 

この様なシステムであるから大半のユーザーは「ゲームをする事」よりも「ガチャを回す事」に躍起になり、いつの間にか「ゲームをする」と「ガチャを回す」の主従関係が逆転してガチャを回す為にゲームをしているという状況に陥ってしまう。

 

ゲームはあくまで個人の趣味なので本人が楽しんでさえいれば、それは良い事だし逆に肯定的であるが、自分ももしかしたら何かの拍子でソーシャルゲームを始めてしまい、いつかこのガチャ麻薬に手を染めてしまう時が来るのだろうか?と想像してしまうと何とも言えない気持ちになってしまう。

 

今回の短歌

 

一万円

現実世界で転送し

デジタル空間

ガチャ100回転

 

 

 

p.s ハードゲームが好きです。

 

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虚無感オリンピック

最近「虚無感」を感じることが増えている。

虚無の感覚

何もない感覚である

特に楽しくもなければ特に悲しいというわけでもない

正に「プラマイゼロ、むしろマーイ」と言った感じである。

 

この世に、何かを成せば得られる称号は山ほどあれど、何も成さない事で得られる称号は一つとしてない

しかし、その生産性の無さがある程度の限界に達した時点で評価されても良いのではないのか?そうでも思わないとやってられないくらいの虚無感を感じている

 

大学生でこれ程の虚無感を抱えている人はそうそういない気がするので、もしオリンピックで「虚無感を抱える」という競技が新しく追加されるのであれば指定強化選手にくらいは選ばれるのではないか、恐らくは。

 

今回の短歌

 

控えめな

秒針「12」を飛び越えて

対して変わらない

今日と明日

 

 

p.s 何もないって平和だ

 

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かっぱえびせんは止まる

皆さんはかっぱえびせんのCMを見た事があるだろうか?

そう意識すると最近はあまり見かけていない様な気がするが

「やめられない、止まらない、カルビーのかっーぱえびせんっ」

お馴染みのこのフレーズによってお馴染みのかっぱえびせんのCMである

 

この世に生を授かってからもう少しで20年余りが経過するが、この20年間ではっきりと気づいた事がある。

 

かっぱえびせんは止まる。それも急ブレーキで。

 

そもそも自分はスナック菓子というものがあまり好きでは無い。

口の中の水分をもっていく事に特化しているし、歯にくっついたりしたりしてあまり良い印象がないのだ。友達の家に行って出てきた時はもちろん有難く頂くが自分から率先してスナック菓子に向かっていった事はないし、最近はもっぱらグミばかりを食べている様な気がする。(チョコの日もある)

 

本題に話を戻すとかっぱえびせんを食べていて「やめられなかった」もしくは「止まらなかった」という現象に陥った事がない。もしかしたら陥った事がある人がいるかもしれないが、特に自分は平均的に見てもかっぱえびせんが止まるまでのスピードが速いのではなかろうか?

個人的にかっぱえびせんが止まるのは一個半食べた時だと思っている。

一個食べた時には久々に食べる衝撃で、気づいたら二個目を頬張ろうとしているのだが、その時には不思議ともう飽きている。3個目を自らの意思で取りに行く事はない

恐るべき急ブレーキだ、アクセルを踏んだと思った次の瞬間にはブレーキを踏んでいる。

 

しかし最近ではそんな食べ方をしながら何日もかけて食べるのもいいかもしれないと思えてきた。かっぱえびせんを買って1日一個のペースで食べるのならばそれこそキャッチフレーズ通りになかなか「やめることができない」のではないだろうか、1ヶ月くらいは。

 

p.s

「それにつけてもおやつはカール」

って一体何につけてるんですかね

 

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悶々go

ポケモンgo

というアプリが先日配信された。

説明しなくても、おおよその概要は大半の人がわかっている位には社会現象が起きているので説明は省くが、つまり《外で歩いてポケモンを捕まえるというアプリ》である。


これが意外に厄介でこのアプリの登場によって

【「歩きスマホが助長される」

「いや、されないけど?」論争】

が巻き起こる結果になっている

 

ゲームのシステム上、歩きながらゲームを起動するのが常である為、確かに助長しているかもしれない

自分自身がポケモンgoに触れてみて初めて抱いた感想は

「あ、これ事故るわ」

だったし、実際に事故も数件(分母がとんでもない数なので事故発生率で見るとほんの0.数%であろうが)起きている。

 

この問題についてネット上では
ポケモンgo批判派
ポケモンgo批判批判派(あくまで賛成派ではなく批判している人を批判する事に重きを置いている)
ポケモンgo批判批判批判派まで出てきてしまう始末である。

「批判批判批判派」についてはそれはもう批判派なんじゃないか?という疑問が生まれそうだが「ポケモンgoを批判している人に対して批判する人を批判する人」なので当初の問題とはズレて批判する、只の批判派とはまた一線を画す別種の存在とみて間違いない

 

批判派の言い分としては

「歩きスマホを助長している」

「なにより危険」

というのが主な意見であるが

「こんな危険なアプリこの世からない方がいい、楽しんでる人は頭おかしい」

という非常に攻撃的な意見も存在する。

後者に関しては批判派の中でも極めて危険な部類で「頭ごなし批判派」と細分化するべきかもしれない。

批判派も一枚岩ではないのだ。

 

批判批判派の意見では

「歩きスマホをしなくても出来るシステムがある(実際バイブで知らせてくれる機能がついている。)」

という賛成派に近いものから

「空気も読めないの?楽しんでいる人が大多数だしルールを守ってやってるならいいじゃん?」

「楽しんでる人の横でわざわざそれを言ってくるのはどうなの?」

「批判してる人の方が頭おかしい

何かっこつけてんの?意識高い系?」

という正に批判派を批判しているお手本の様な意見もある。

こうなったらもう戦争である。

 

「頭ごなし批判派」と「頭ごなし批判批判派」の戦いとも呼べるかもしれない

 

更に批判批判批判派の意見は

「歩きスマホは人によるかもしれないけどゲーム事態に欠陥があるのは認めた方がいい」

「実際に目に見えて迷惑なのにそれを指摘したら空気読めないとか流行に乗れないとか言ってるそっちのが頭おかしい」

開戦の合図である。

 

Twitter等のSNSでは今現在でも日夜この論争が繰り広げられていてポケモンgoに対する批判の記事があれば大概のコメント欄が戦場と化しているので興味があれば覗いて見る事をお勧めする。

個人的にはこの論争を端から眺めているのが一番面白いポケモンGoの使い方ではないのかと思う。

 

これだけ長々と書いたが、もちろんルールを守っている人が大半だし、そんな論争からは無縁で純粋に楽しんでいる人が大多数なので世界は平和だ

 

今回の短歌

 

マンホール

次元の壁を乗り越えて

龍が飛び出す

ポケモンgo

 

p.s

僕は「中立派」です。

 

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いつの間にか夏になってた。

ふと気づくともう夏である

ほんの少し前まで寒い寒いと暖房で付けていたエアコンはいつの間にか冷房に切り替わっていて夕方になればひぐらしも鳴いている。

いつ頃からかは分からないが時間の経つスピードが急激に早くなった気がする。

自分が予想しているスピードよりも遥かに早く流れていて、だからたまに置いてきぼりを食って、時差ボケじゃないけれど頭の中ではまだ高校生のままなのに自分がもう20歳になるのかなどと当たり前の事を急に気づいたりしてびっくりする。

 

びっくりして泡を吹いて倒れそうになる。

 

このままのペースで自分のスピードと自分の周りのスピードとのギャップの幅が開いていくのならば自分の体感時間の二年後くらいには、もう還暦を迎えていたりするのかもしれない。

 

そんな中でせっかく今、この瞬間を夏だと自覚しているのだからせめて自分が周りのスピードになんとか追いつけてる内に夏らしい事をしたいと思う。

 

祭りにいったり花火をしたり、川に行ったり海にいったり、、

 

しかし現実はそう甘くはない。

今年の夏はどうやら夏を満喫できそうには無い

今のところ花火に行く予定は無いし祭りに新しく行く予定も無い。

しかしどうだろう。今が夏であるという実感はあるのだ。

夏を満喫できていないと嘆きながら蒸し暑い部屋でセミの声を聞きながらテレビを見るのも十分夏らしい過ごし方だと言えない事もないだろう

コンビニで夏限定のアイスなど(例:スイカバー)を買ってくると尚更夏らしさが増していいかもしれない。

 

なんて言ってる内にいつの間にか秋になっているのだ。

今を噛みしめなければ

 

今回の短歌

 

合評を抜け出し

自由になった僕

と単位と夏の空気とセミと

 

p.s 単位やばそうです

 

 

 

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